国立民族学博物館で昔から気になる展示がある。ミクロネシア(キリバス)の「サメの歯製武器」というオソロシイ武器だ。サメの歯を丁寧に止めた棍棒であり、これを見ると島嶼部の悲しい生き残り方とともに、現在に通じる「武器による抑止」を想起せざるを得ない。
棍棒、槍など実用的な武器はもちろんあるのだが
直接的に殺傷能力が高いのは棍棒や槍であり、あまた形状がある。特にミクロネシアは鉄器がなかったため主に木製、まれに石が使われる。環境や戦闘スタイルに準じた武器が開発されたのであろう。
“楽園”と思われる島嶼部における原初的な戦争は、自然災害による飢饉などが原因と考えられる。まれに領土争いに起因する独裁政権による侵略もあったかもしれない。
殺さず傷を残す「サメの歯型武器」
ただ戦争といっても島嶼部、部族内の紛争やほかの島からの侵略があったとしても人数は知れている。そして、惨敗した勢力は新政権にとって重要な労働力になった。殺してしまっては結果的にマイナスだ。そこで考えられたのは棍棒や槍で抹殺するのではなく、死に値する恐怖、傷跡を残す武器だ。
サメの歯なんぞで殴られたら…、想像してほしい。部族の長がこういった武器で傷つけられると、一族は長きにわたり敗北を記憶する。この武器は平和を維持する抑止力を持つというわけだ。
神具になるのは“聖なる武器”か?
最終手段としての武器の存在は、世界中の神々がそうであるように武器を携える。聖なる武器として象徴化するのだ。写真はタヒチの葬儀長の衣装で、しっかりサメの歯がついている。死と生をつかさどる儀式で“死のシンボル”として印象付けられるのであろう。
いまだにこういった死のシンボルをちらつかせないと、自国の領土を守れないといった立ち位置は、文明化の証といって割り切れるものだろうか?武器は本当に抑止効果があるのだろうか?勝った側の「ひらきなおり」ではないのかと感じる。
儀礼、祭礼で装飾が進む武器
聖なる武器はその神格化された特性がクローズアップされ、再生産される。もはや実用性は感じにくい。日本国内の祭禮で子どもが刀を振り回して踊るのも無関係ではない。かわいらしく優美なものだが、その本質は某国の軍事パレードと同質のものかもしれない。
人類起源説を記すトーテムまで出てくると、さすがにヒトは武器が好きなのだと思う。恐怖感はすでにアクセサリー化していくものか?文化人類学的にそれが進化とするなら、やはり未来永劫“オロカナル人類”のままなのか?
モザンピークの“いのちの輪だち”
新しい展示物もあった。写真を凝視していただきたい。溶接された鉄は、すべて拳銃や武器だ。内戦が続いたアフリカのモザンピークで発生したアート運動で、個人が「武器を捨てて自転車と交換」する生活を表現したものという。
アイヌやアボリジニなどの生活様式はカミとともにあり、武器は見当たらない。その領域に戻ることはできなくても、聖なる武器への考え方を変えていくことは不可能ではない。
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