この一年ほど淡路島に趣く機会が増えており、いくつか気になることが多いのです。実は弊社はリゾート法施行のころから起業しており、淡路島の変換を肌感覚で見聞きしてまいりました。さまざまな魅力的な観光地があるわけですが、いま改めて淡路島の面白さに気づくわけです。
1.ヨットに乗せてもらって実感した北前船航路
まずは動画で作成した「北前船航路大阪湾セイリング…て、砲台に海賊。明石海峡は怖すぎる」
こちらをご覧ください。直近の訪問はこれがキッカケでした。航路については動画に示す通り、淡路島がいかに流通、軍事…まあ総称して海事ということになりますが、最重要だったかということです。明石海峡なのですね。
古墳時代からの資料から見ても、この区間をいかに監視できるか、するかが為政者の決め手ではなかったかと。ヨットは25フィート弱。スピード感はこれまでに楽しんできたシーカヤックよりも恐ろしく早く、汽船よりはずっと遅いわけで、改めて人力で操作する「フネ」の速度を実感したわけです。遅いから見える(監視)。早い船があれば追いつける。そんな感じでしょうか?
2.レジャーランド化する理由は通過されないため
淡路島のアクティビティー、リゾート系ホテルのレベルはそれなりに高くなりました。それはかのリゾート法以前に明石海峡大橋設置の話があったから。バブル期ですね。四国への通過点とさせないため、通りすぎるまちにならないため、さまざまなタイプの出資があり、多様な観光施設がここから生まれたといっていいでしょう。
ビジネスモデルとしても現在の著名人材派遣大手がこちらに移転されるなどという点も、どこかのセメント系政治家がちらほら見える経緯と政府政策が見事に一致する点。これは「シマ」というものがレジャーランド化していく方向性(地域振興というらしい)と同じだと感じます。
3.見方を変えると、恐ろしいくらい面白い
なんで人形浄瑠璃が…おそらく栄える構造は地理的な要因にあります。写真は鳴門海峡側の福良の港。セメントが覆ってしまっているわけですが、なぜこの港が文化的に価値があるのか?料理旅館の鯛めしを食べて喜んでいる場合ではないですよ。ここは「泊り」なのです。
「泊り」とは波まち風まち。そばは鳴門海峡、渦潮です。船が出せないタイミングは多かったでしょう。さらに徳島藩に限らず、通行税を求める方々も多かったのではないか?滞在期間が長くなるのは各種調整や政治的な課題も多かったのではないか?時間が長くなるとヒマであります。食い物もうまい。ここに観光と文化が発展する余裕が生まれたのでしょう。改めて「なんで人形浄瑠璃が…」淡路に。と、ちとお考えいただきたい。
真の意味での淡路島観光スポット。見方であります。
4.今回の取材でマイナーでも面白すぎるスポット
リゾート法施行、行政および地元資本の投資は淡路島を変化させ、優れたもの愚かなもの(いろいろニュースありますなぁ~)がたくさん残り、おそらく昭和、近代遺産として後世に残ると考えています。本稿の趣旨に戻りマイナーだけど…淡路島観光スポットをご紹介します。
「高田屋嘉兵衛紀章館」
http://www.takataya.jp/study/index.htm
なかなかのレベルの高さ。収集品、模型など明石海峡を通じた北前船の価値が見えてきます。北前船航路のダイナミックさ。商社機能を持ちながら、つまりは商売をしながらの航海というのは世界に誇れるものではないでしょうか?現在の流通はダイレクトな「配達」ばかり。これは持つわけがないですね。「舟運」に学ぶべき要素は多いと思います。
アイヌの皆さんがラッコ、ルシリ昆布を獲り、それを松前、富山や琉球、大坂などでかすめ取りながら、実は超高級な嗜好品(だいぶん削り取られたんでしょう)としてロシヤや中国に収められていた…
写真は拿捕されたロシア人なのですが、どうも私の祖先(ひぃひぃ爺ちゃん)ではないかとか?
どこから明石海峡を監視できたかというと…幕末、戦前まで稼働していた徳島藩松帆台場跡とか岩屋城跡が発見できました。完全にうずもれていることが残念ではありましたが。
岩屋城跡の下には「岩楠神社」があり、この洞穴に注目できます。戦時中は防空壕として活用されたと想定しますが、ではそれ以前は?岩屋城で監視する者たちは最新情報を伝達した後、身を隠す必要があったと。なぜなら攻撃されるから。現在、この岩屋城跡は地元の方々にヒアリングしても全く認識されていない状態で「城跡」として幼少時代にあそびに行った…ぐらいの反応でした。北前船航路から読み取って、明石海峡を考えると、福良に対してコチラはもっと緊迫していたのでしょう。歴史的に。
歴史的にと考えはじめると、ここはもともと内海、つまりは巨大な湖にありなぜ恐竜が滅びたか?アンモナイトは残ったのかという事実にもつながっていきます。
・「大阪湾岸に恐竜時代を見た アンモナイトをさがせ」
今後、もう少し観点を広げてみようと思います。写真は灘に現存する杉桶屋さん。「下らない」の語源になった杉桶であり、菱垣廻船、つまりは東回りの江戸へのルートも探求せねばと感じております。
こっちはかなり軍事的なルート、そして商業流通、いやいや情報戦の役割がかなりあったのではないかと。お米とか金銀為替…貨幣経済がかなり干渉する意味では、明石海峡の物理的な意味合いとはかなり変わってくるのではと。
ということで今回お連れ頂いたヨットの船長に「春には友が島に連れて行って」とおねだりしている状況にあります。
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