よぉ来たな、まぁ、2階でビールでも…
「よぉ来たな、まぁ、2階でビールでも…」
いつもこの言葉で、社長との会話は始まった。
社長の師匠である高木先生のベルリンでの出来事、通称ベルリンねぇちゃん。釧路ツアーの話、打滝川水中の「砂のサラサラ音」…1セットお話を伺うとだいたい1時間。
そこからようやく今回私が訪問した理由などを説明して、「きみ誰やったかいな?」と本題に入る。いつもそんな具合だった。
行方不明から…
現社長の亮さん(ご子息)には悪いが、私にとってフジタカヌーの社長は清さんである。写真はいまだにカタログに登場している私。
五月末のある日、近所の方と昔話をしていて「マツタケ獲りに行ったな」という話題が心残りになったのだろうか?笠置、フジタカヌー工場の北側の急峻な山を登っていたという。行方不明と亮さんが認識したのは同日夜。そこから4日間警察と消防が“くまなく捜査”したという。しかし足取りは付かず…5日目に亮さんが捜索打ち切りに対して憤りを感じ、急峻な山を調べたら、ピークを越えた坂道に前のめりになった遺体を発見した。
色々思うところはあるが、これが藤田清社長の最後、仏さんになったわけである。
私が知ったのは2週間後
亮さんもパニックしていた。ずいぶん経って連絡が入り、身内のみで葬儀は執り行われた後だった。社長はもともと京都のボンボンであったが、カヌーに惹かれて“異端視”されていた。それもどこか納得できる。
で…亮さんからのお知らせ、実は追悼カヌーイベントをやるので「手伝ってほしい」ということだった。結果的に実行委員会に入り、危機管理面のアドバイザーをしている。
第1回木津川笠置カヌーフェスタ開催
・第1回木津川笠置カヌーフェスタ
https://fujitacanoe.com/canoe-festa-1/
ご興味ある方はこちらをご覧ください。
ただ、立場上こうなってしまったが、藤田清さん、社長についていくつかテキストにしておきたい。京都の呉服店に生まれ。京都帝大で宇宙物理学を学んだ高木公三郎師(1907-1991)がドイツから持ち帰ったファルトボートは大き過ぎなため、コンパクトな艇への改良に取り組んだという。資金として日本ビクターがスポンサーになったところ、残念なことに事業は継続されず社長をはじめ3人が、自らが線を引いた設計図を盗んで逃亡。
3人のなかで商品としてファルトボートを世に生み出し、国産カヌー生産というインキュベイターになったのが社長だ。そこで時代は第三次アウトドアブームに突入する。社長とはじめてお会いしたのは私が20代後半のこのころだ。
遊びカヌー発祥の地、木津川笠置
笠置については高校生ぐらいから、MB50㏄のバイクで何度も通い、その後大きなイベントも開催した。協賛企業を抱えた布目ダムでのイベントなどを通じて、社長とは親交(まぁビール)を深めた。実は食事、宿泊付きのカヌーツアーを形成したのも社長である。このビジネスモデルは、西日本から全国に広がる。
社長はカヌーに真っすぐすぎたと今、感じる。どんなイベントがあろうとも、展示会があろうとも、社長の頭には当時から競技カヌーではない“遊びカヌー”という概念があった。これは実は大切なことであり、いわゆる政界のえらいさんがボート部、カヌー部出身といった肩書を持つ流れにハンボクしたものだ。
少し前の内閣総理大臣が、現在の日本カヌー連盟のトップを独占し続けている事実なんかは誰も知るヨシがない。ま、そっちはほっておいて、私は遊びカヌーにはまったわけだ。この記念碑はそういった意味合いを持つ。
偲ぶ会をサポートすべく
遊びカヌーの普及は、社長の存在証明だっただけに、こういったカヌーイベントの開催を否定するつもりはない。ただ…このイベント通じて国土交通省近畿整備局、笠置町などと「河川空間オープン化」事業の会議の場に経つと、あまりにも社長の偉業が知られていないことに驚いた。
だから、その偉業を感じた世代の皆さんが列席できる場として「偲ぶ会」を運営したいと思う。しかしご案内のリストさえ作れない…享年91歳の社長。フジタカヌーの愛好家たちはすでに鬼門、もしくは老いの中にいる。結果的にカヌーをもってして、アウトドアブームを俯瞰した社長…自分の将来がだぶって見える。
こころより、社長のご冥福をお祈りする。
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