観光公害といったキーワードが懐かしい、コロナ渦下の今日この頃。早い段階での集団免疫がワクチンによって成功すると信じ、多くの観光地が「栄光を取り戻す」べく、準備に拍車がかかっています。再びあのような日常が戻るのか?それではあまりにも感染症による経験、学びが活かされないのでは?従来型のマスツーリズムを踏襲するなら、それはやはり“同じあやまち”を繰り返すだけのおマヌケな人類でしかないのでは?
観光によるリスクは、学べていないのかも?
人が移動することでリスクが拡大するという、グローバル化を推進してきた人類にとって、本質的な危機をしめされた感染症の拡大。交流すること自体が否定されました。この期に及んで、水際対策がどうのこうのと叫んでいるわが国の感覚は、異常と感じる次第です。そこにはやはり潜在的に「外から血を入れないと、弱体化するシマ」の感覚が残っている気がします。外からの地…それはお金なのでしょう。
いち早く観光から緩和しようとしたGoTo戦略などは、政治的、経済的な力学を除いて鑑みても、異常だったような気がします。経済面はさておき、血を取り込まねばならない、混ぜねばならない国民性。そもそも旅行が大好き、観光優先の国民性といっても過言ではないでしょう。しかし、そこには大きなリスクをはらんだため、観光のありかたがようやく議論されるようになりました。リスクを持ちながらの観光とは何かと。
リスクを持ちながらの観光とは
関係人口、関係交流というキーワードはコロナ渦以前から提唱されていました。ヒト、カネ、モノの流れを促すだけが観光ではないと。それはしかるに、中長期的な交流により、伝統文化の継承や、地域独自の個性(それによる都市集中の緩和)、中長期的な交流によるシマ文化、経済(血液)の維持、持続だったわけです。
まあ、コロナに巻き込まれて、この言葉の意義が少しだけ理解されるようになったというところでしょうか?やがて、従来通りとまではいかなくとも、リスクを持ちながらヒト、カネ、モノは流れだすでしょう。
さて、そこで人が来る、元のようにお金が回る…と帰着するなら、やはりそれは“学習できていない”ものになると思いませんか?この経験を活かし、新たな観光の地平をめざすべきではないかと思います。
しあわせとは何か?観光の秘めたるチカラ
観光には紋切り型ではなく、結構なパースペクティブがあります。わかりやすい例でいうと、ゲストに「伝える」ことがホストの「学び・地域愛の向上」にダイレクトにつながります。それは探求心となり、食、信仰、歴史、環境、自然などなどあらゆるチャンネルに抵触します。だから学び、ゲストに出逢いたくてウズウズします。そしてそれは当然、ゲストにも伝わります。
ゲストの訪問が一過性で終わらぬように仕向けると、ゲスト、ホストの関係は昇華。ただのリピーターではない、離れた家族の“ような”関係になれるのではないか?わたしはそれが「しあわせをよぶ観光」と、定義しています。このあたりはオンラインやDXによって、今日流の維持継続の方法が、案外容易になったことも後押ししてくれるでしょう。
海外旅行、農協旅行、新婚旅行、社員旅行、スキーツアー、卒業旅行、インバウンド対応…すべてが旅行会社と航空鉄道ほかインフラ企業の作り出した現象としてみると、確かにそれを受け入れる受益地にとっては「しあわせ」だったのでしょう。しかし、受益地はゲストの顔を福沢諭吉として換算することに慣れすぎ、観光のパースペクティブを見逃してきました。
良くよく考えると、観光産業の発達した地域は、実際問題…過疎化で悩んでいます。若者は整備押されたミチを使って、都市に出ていくのです。残念ながら。そこを止めねばなりません。
コロナ渦で得た智慧「しあわせ」
ちぃ~た~学習、進歩するべきなのでしょう。人が交流すること自体でリスクが増えた観光。ならば、観光そのものの意義を高めていく。そういった気概が、あれこれ散見できます。
結局、弊社で26年近く唱え続けてきた方向性なので、いまさら感が私にはありますが、先駆者であるだけに、その責任を感じています(しかし仕事なく、ヒマではある)。まだ、市場、ヨノナカはそこまで至っていないのかもしれません。ならば、そういった需要を喚起させる方法を編み出さねばなりません。これは大リーグボール3号を生み出すくらいの努力根性が必要です。
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