特定の政党が独善的に進める都構想というものに反対している、大阪の一市民です。しかし周りを見渡すと人気者になびく町会長など…大阪の未来には暗雲がひしめいており、残念な限りです。お笑い芸人の知事を選ぶ風潮は、そろそろなんとも変えねばなりません。
さて、商都大阪といわれつつも本社機能を東京に移動した大会社は数知れず、もう一度大阪の役割、そしてそれを補完してきた大阪周辺のありかたについて一石を投じたいと思います。天神祭をつかさどる「渡邉一族」として、この舟運と情報流通の歴史について、考察したいと思います。AnotherOsaka(アナザー大阪)という気付きです。
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上方文化「大坂」を支えたのはAnotherOsaka?
とくに江戸時代末期なのですが、国内最大の消費地である江戸を支えたのが上方文化、大坂でした。この商都におけるシステムについては、大坂中心都市部はもちろんその周辺の大阪が支えていたといっても過言ではないと思います。
大阪であって大阪ではない。それらの市町を仮説としてAnotherOsakaと定義づけて考えてみようと思います。
あくまでも概念ですが、そう捉えるのがこれからの数年に耐えうる(ある意味対抗策)発想ではないかと感じています。ちょっと英語呼称は好きではないけど、わかりやすいので。
わかりやすい「くだらない」は上方と東京江戸の位置づけによる
「くだらない」という言葉の語源が「下り酒」とか「戻り酒」に所以するということは皆さんご存じでしょう。
よくよくこの流通を読み解いてみると写真のような構図が見えます。神戸 灘で素晴らしい日本酒ができて、そこには杉樽が必要となり、奈良で恐ろしいほどの杉の生産が進みます。それを製品化して大坂へ集中…江戸へ出荷。上りものとして江戸ではたいそう売れたわけです。
そして「下り酒」、「戻り酒」なのですが、オーバーフロー(返品)したお酒が上方に戻ってくると“うまいがな、こっちのほうが…”と。杉樽によるフーゼル油効果?熟成されたのですねお酒が。二重の流通効果が生まれたわけです。学ぶべき点ありますね。AnotherOsakaの奥深さです。
ミカンや塩ジャケもまた…この流通を認識すべし
和歌山紀州湯浅出身の紀伊國屋文左衛門による伝説的「みかん廻船」ビジネスの例を見てみましょう。
紀州みかんが大豊作だった年、大坂ではみかんの価格が大暴落。文左衛門はしこたまみかんを買い占め、都心である江戸へ運んで大儲け。さらに帰りに塩鮭を買い、灘(神戸)と大坂に運んでさらに…となったようです。
菱垣廻船、樽廻船、十組問屋の消滅(天保の改革)までこの黄金ルートは物資を変えて生き残りました。ここでいう和歌山や灘の役割は、大坂を補完するAnotherOsakaだったとうかがわれます。※少々私観が入っております…
明治から戦前に勃興した岸和田の不思議
わかりやすい例として岸和田藩をとらえると、江戸、明治、大正、昭和初期と大坂を補完していた事実に驚きます。
時代によって海運の干鰯、綿、レンガの時代。そして玉ねぎ、鮮魚の鉄道輸送(北大路魯山人が京都で実践した手法をいち早く導入?)などなど。レンガにおいては自重の重さから深い港、さらに積載量の確認が必要で「看貫場」が生まれたと察しております。そうです、あのだんじりにおけるカンカン場です。
AnotherOsakaとしてイノベーショナルな地域色だったとみています。
大阪だけではない“全体像としての上方”
スエズ運河みたいな感じだったのでしょう…明石海峡、紀淡海峡。
西国大名の見張・監視としての明石城、紀州徳川の見張・監視としての岸和田城と聞いておりますが、ここまで紹介したように現実的には流通を基本とした情報戦だったのではないかと考えられます。
海(大阪湾)における流通、情報は現在のWEBに近いものだったかも。
下の写真は大阪湾から臨む金剛山、葛城山系。アイコンタクトできるところに漁船や貨物船がいます。
AnotherOsakaは決して大阪だけではない“全体像としての上方”と考えるべきであり、それは現在の領域や行政区分では決して割り切れないものなのです。
歴史的な港湾を持った都市というのは、時代の差はあるとしても多かれ少なかれ、このような現実が残っています。ガバナンスとしてはこういった仕切りを強化して何を喜ぶのか?首長の自己満足だけではないのかと類推してしまうのは私だけでしょうか?
AnotherOsaka。さて…どこへ向かうのでしょうか?
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