1932年(昭和7)生まれの父、佐一郎は新潟県佐渡島両津出身。2007年(平成19)10月、私の目の前で他界しました。本人も強く意識していたと想像するのですが、丹波哲郎に似ておりました。ゆえにダンディでしてキーハンターであり、ボンドだったりしました。その佐一郎の、母も兄も知らない私に告げたいくつかの教えを備忘録として残します。
男は何にでも乗れなければならない
父の名言なのですが、ショーン・コネリー(吹き替え:若山弦蔵)を見るたびにつぶやきました。現在冷静に考えると英国海軍中佐という設定でボンドは活躍しているわけで、そりゃあたりまえと突っ込みたくなるのですが、助手席がぶっ飛ぶアストンマーティンを見ながらいうのだから説得力がありました。
実は相当の007ファンだったと思います。しかし、彼は普通免許しかもっていなかったし、私もそうです。お馬にもイルカにもカヤックにも、そしてパラグライダーにも乗っている私のほうが少し自慢できるかもしれません。
エチケットをわきまえろ
これは兄も、かなり諭されたのではないか(?)と思います。昭和高度経済成長直後「エチケット」というキーワードが広がりました。今でいうとマナーとかいう言葉かもしれません。エチケットをわきまえろ、よく言われました。
しかしまぁ、頻繁に散髪(安い店)に連れていかれたこと、七五三の兄の写真を見るとポケットチーフが入っているなどを見ると、エチケットのなかでも服装や靴に対する意識は強かったようです。
父が酔っ払って酩酊している姿は、小学2年のときに1度見ただけ。離島出身で突然大阪という都市に出てきた少年、最初に自転車店創業。サラリーマン時代を経て独立開業という佐一郎の歩みを思うと、出世よりも自分の暮らしの質を求めるためにそれが必要だったと…後に語ってくれました。
請求書は自分で渡しに行け
私が独立開業した折の最初の言葉で、実践できてません。そして、さらに続きがあります。「月末の得意先の状況をつぶさに観察する。会社のヤバい時は雰囲気で理解しろ、それが次の仕事につながる」と。これは名言だと思います。おいおい、私はMI6の諜報員か!
ほかにも取引先銀行は本店営業部と取引しろとか、まだいくつかありますが、私へのはなむけの言葉であったと今更ながら感じております。ダンディーでエチケットを守る…そして自営業で耐える。しかしまぁ、完璧なわけではありません。
義理の祖母の葬式、遺族にまったく挨拶もせず、バスの乗ったときにお別れの集団の一番後ろで、ハンチング帽をかぶり100キロの移動をかっ飛ばして駆け付けた姿に涙しました。
嫁、姑のいざこざでは“黙る”
おそらく父はモテました。ゆえに数回、自宅で母が取り乱すケースもありました。さらに祖母と母の表現に耐えない争いの際…父は着座して一言も発しません。最もひどかった昼、父の沈黙に見かねて高校生の私は外出しようとしたのですが、母と祖母が私を味方につけようと、玄関先で私の両手を引っ張りました(大岡裁か!)。
それでも黙っている父親。今考えると、おちゃめな要素だったのかと。13回忌を過ぎた折、すでに他界した叔父(佐一郎の弟)が仏壇に座って、同様の話を私くどくど話したのはかなりむかつきましたが。
父親となった私が息子に何を伝える?
さて、丹波哲郎は死語の世界を唱えつつ、死後の世界に行って、ボンドはグレイクになってしまいました。佐一郎のダンディズム、どうやって我が息子に伝えるべきか。
まぁ、勝手を見ておけ。そういうスタンスでしかありません。あ、余談ですが弊社の留守番電話のBGMはキーハンターです。
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