内湾漁業や個性的で親水性の高い文化
夏に限らず泳げ、比良山などの独自の山系に恵まれた琵琶湖湖西は、昭和30年ごろから避暑地として定着した。湖岸には大規模宿泊施設が立ち並び、マス旅行で栄えつつも内湾漁業や個性的で親水性の高い文化は維持されてきた。
写真は「川端」といって“かばと”と呼ぶ。平野部に集まった水を用水として下へ流す。年中通じて水温の変わらない美しい水は、家の中を流れ、洗い物やコイなどの魚類の備蓄に使われた。
今、“かばと”は絶滅寸前だった
バス釣りブーム全盛期にあってもこれらは存在し、滋賀県主催の「湖西ナチュラリストスクール」なる連続講座を企画・運営した。現在、巷のニュースでは護岸をはがし、生態網を守るヨシの保全が進みつつ人口流入が増加しているというので、再訪問してみた。しかし、23年前の姿はそこにはなく、荒涼とした湖畔が続いていた。
漁業からレジャー施設への変換
そもそも国土交通省の基準があいまいであった昭和30年代、漁業空間は民宿やバンガロー村(湖水浴場)、ドライブインに変化したケースは少なくない。大津や近江今津などホテルの進出も目立った。現在これらが撤退、空き家化している。市町としても持ち主が見えず、台風接近などのあとはやっかい物件になっている。
まあ、見方を変えれば昭和30年代から高度経済成長期の雰囲気ものこり、独自の風情も感じられるが。
グランピング施設への転身と民宿の変質/h2>
まとまった面積がある土地はトレンド(泣)というかグランピング施設へ。この2年の変化だという。湖畔は先に述べたように既得権益が残っており、規制対象にならない。民宿は近郊教育機関の合宿ニーズにこたえるべく、大型化。双方ともネット予約やビワイチの影響が少なくない。
稲作休耕地に関しては、ログハウスなどの宅地化が進んでいる。これはコロナ渦下の巣ごもり需要の反動といるだろう。事実、専門デベロッパーの上り旗が高島大津線に連なる。どうやって農地転用をんしえたかと推測すると、農地組合、JA、デベロッパーの利害関係が見える。人口増のカラクリだ。昔、箱館山から湖畔を見渡すと、水田が個性全体に痘痕のように彫りがっていた。水田も琵琶湖の一部と思った瞬間だった。今はログハウスは広がっているとでもいうのか。
漁村を偲ぶ…
ブラックバス釣りの規制が利いたために、マリンレジャー関連施設は減少。現在は小さなテイクアウト店や、ご多分に漏れずグランピング施設だ。しかし、しっかり歩いてみると幹線道路を外れたところには、まだまだ漁村が残っていた。
写真はマキノ傷周辺の石積みだ。湖北になるが…。若干であるが漁村はまだ息があるようだ。自転車で幹線道路一周も結構だが、自転車であるなら余計に、これらの景色を見逃してほしくない。
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