総合学習を進めるときに、地元の方が地元のキーマンを知らない。この課題は探求型学習のお手伝いをしているこの数年、深刻さが増してきている気がします。行政や市民が互いに価値を認識できていないというのは、生涯学習機能が動脈硬化状態に陥っているのが原因とみています。
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前近代的な日本の生涯学習方向性…
「人々が自己の充実・啓発や生活の向上のために、自発的意思に基づいて行うことを基本とし、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて行う学習」というのが生涯学習の日本での定義ですが、欧米ではいたって簡単。「人が生涯にわたり学び・学習の活動を続けていくこと。」と、いたってシンプルなのです。
どうも日本では、小難しく考えるから現在おかしなことになっていると思います。学びは自発的に行うことが前提で、あえて主張するのは“教えてやる”“教えるために教育委員会はある”といった、前近代的な方向性を誇示しているからではないでしょうか?普通に選ばせて、好きになったら深めればよろしいのです。
組織構造が現在・未来に即していない。…
4年ほど前「年に1回イベントやるので手伝って」ということで、ほいほいあるまちの生涯学習の会議体の委員になりました。ほかの委員は子ども会やPTA、社協、障がい者福祉のなど関係者。イベントというのはまちの生涯学習フラッグシップ事業という位置づけで、市民を集めて諸方面の方々の公演を聞くというものでした。
このイベントのために生涯学習課へ年間6回ほど集い、実施計画や広報を検討する。誰に登壇を求めるか、候補がすぐ出ない。わが町の実践者を皆さん、まったくご存じない。ジャンルとまちの名前で、一定の候補者は拾えるが誰もしない。情報の動脈硬化を実感しました。
同じまちで同じころ、府立高校の探求学習のご支援を始めていて、同じ壁にぶつかりました。先生方が、まちのことをご存じない。何が原因なのか?
教育委員会が固いのでは?
図1)は現状の教育委員会の一般的な構造。記載している以外にも様々なセクションがありますが、タテ型構造がなんでも悪い!とは言わないまでも、このセクション仕切りが障壁になっていないでしょうか?それぞれのセクションの財産であるヒト・モノ・コトの情報が、ほとんど共有されていない。
昔は広報誌などがその垣根を低くしていたようですが、現在の市町村広報は文字が大きくなり、記載できる内容は限られています。公式サイトも残念ながらアカウンタビリティーよりもコンプライアンスを優先するため、無駄な情報はほとんどありません。市町は案外、情報過疎なのです。
有機的、機能的な組織の在り方
いうまでもなく少子高齢化は深刻であって、人口減少社会は必然的に自治体の財源を苦しめます。また、社会的なニーズは複雑なICT進化のなかにあっても、ヒューマニックなものを望みます。ましてや、生涯学習はお年寄りから子ども。これからは福祉の充実、LGBT的観点も求められます。
せめて、ヒト・モノ・コトの情報を共有するべく、有機的、機能的な組織の在り方をめざすべきです(図2)。マッチングだけならだれでもできますが、その後の継続的支援まで俯瞰していかねばなりません。
異種配合が生涯学習を育てるのではないか?
昆虫の生態を観察していた結果、自然災害に関心を持ったとか、読書深めるうちにスポーツをはじめ、その尊さを知り福祉事業を始めた…。こんな事例はいっぱいあるでしょう。こういうことを推し進めるのがフラッグシップ事業ではないのかと考えています。まちを支えてくれる人材の育成であり、うまくいけば事業化も可能です。
ちなみに冒頭で紹介した生涯学習の会議体では、任期満了を過ぎた昨年度に委員長に推進され、「ちゃぶ台返しをしますよ」と了承のうえ、現在も続けています。すでに先般「ちゃぶ台返し」をやらかしました。
早いうちに血液をサラサラに?
先日、そのまちの博物館で開催された自由研究相談会において研究者が子どもたちとやり取りするなか、図書館の司書さんが何冊もの書籍を持参して1コーナーを担当されていました。要はこういった流れが、普通になればいいのです。
同時にデータベース化も必要でしょう。年表、郷土史だけではなく、リアルタイムでヒト・モノ・コトの情報を加えていけるような。DX活用で何とかしたく、それらの対策を組み合わせ、早いうちに血液サラサラにせねばなりません。
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