電線や電柱、信号機、日常とのそのなかでの違和感…庵野秀明監督がいかにも好みそうで、当時当然全くそんなことは意識せず、20歳の私が制作した自主映画「土管」です。実は背景に面白い話がいろいろありまして…今となって舞台裏をご紹介します。
母親が白血病になり、若いA型の血液が必要であった
主演の村上泰輔さんをはじめ、大学を除籍された後の私には“若いA型の血液”を集めるため、大勢の友人を母の病院へ連れていき、献血(というか血小板を取り出す)に協力をいただきました。母を延命させるにはその手法しかないと宣言されていたのであります。
実はそのときの苦悩感…なのですね、この短編映画。映画を撮影するうえで費用が必要で、大切にしていた8ミリカメラを担保として“好きなだけフィルムを買っていい”という約束を取り付け、何度も何度もテイクを繰り返しました。NGカットが先日発見でき、恐ろしい量のフィルムが残存し、驚かされました。
1985。バブル期の若者のむなしさ
ロレックスしてマハラジャに出かける同世代を見ながら「なんで俺はドラキュラみたいなこと続けなあかんねん」と口惜しく感じてました。しかし…マハラジャに行ってみると(行ってるやん…)実につまらない現実。そしてその一方で日雇い労働をしながら、チクチクお金をためており、実はこの年、母の死後、家出を敢行しました。
便利屋に参加し月給6万5千円、家賃は2万5千円!今考えるとおとぎ話のような事実でした。バブルの絶頂期、私は小麦粉をこねて、何とか食をつないでいました。相当に狂った生活ぶりだったのでしょう。
意外と評価は高く、コンペに出展するが
完成後、内部のお披露目では評価が高く、国内有数の自主映画コンテストに出すべきと助言をいただき出展。この1985年、1986年は自主映画の世界では劇的な年だったと記憶しています。しかし…
枚方市香里園にあった映画館が閉館するという情報が入り、そのレクイエムとして自主映画の祭りをするというのです。高校の近所にあった二つの映画館、ここには思い入れがありました。運営側について近隣の映像作家に声をかけ作品を集めたのですが、足りません。仕方なくコンテストの事務局(ぴあ)に依頼し応募中の「土管」を返却してもらいました。
まぁ…ぴあには電話でえらい怒られました。「最終候補の審査に出すのに、なぜ返却させる!」と。
しかし上映会はドタバタ
香里園映画館のファイナルイベントは…とんでもないものでした。運営が甘かったのでしょう。現実的には考えられないのですが、ショートムービーばかりだから人から借りた映写機、たった一台で上映する姿勢。フィルムが切れたらどうするんだとかいう心配を全くしないままで進行したら、あっさりトラブル続出。
予定の上映スケジュールを変えて、音声なしでも写せる「土管」を映して、その場を逃れました。これが最初で最後の「土管」上映になったのです。このトラブルを私は全く関知しておらず、同時刻で友人の友人を「原理」のオルグから救出すべく、喫茶店で議論していた…そんな時代でした(笑)。
もし「土管」が評価されていたら
もし「土管」が評価されていたら…私の人生は大きく変わったでしょう。この年の作品は前述したように豊作で「草の上の仕事」に注目が集まりました。爆笑問題の太田光が助演している作品です。翌年は審査員の佐野元春に絶賛された「花火」が受賞。これは「土管」の撮影監督をお願いした小池隆監督の作品です。
怨めしい。
とは言いませんが、もしかして映像作家の道があったのかもしれないという秘密の作品なのでした。ただ現在思うところは…あのとき、香里園映画館のファイナルイベントの重要さをもっと意識すべきだったかと。作家よりもプロデュース側に回ったほうが、自分の役割には適しているのでは?
ま、そして現在に至るわけです。プロデューサーであり、映像作家でもあり得る。黒澤明監督、庵野秀明監督が示してますね。実相寺監督にはそれはできなかった。そういうインフラが整ってきましたので、母親に報いるうえでも、どこかにまた。
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